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広島高等裁判所 昭和50年(ネ)267号 判決

控訴人 附帯被控訴人(被告) 株式会社神戸製鋼所

被控訴人 附帯控訴人(原告) 淀川寿夫

〔原審〕 山口地方下関支部昭和四七年(ワ)第二六〇号(昭和五〇年九月二二日判決)

主文

原判決を取消す。

被控訴人(附帯控訴人)の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人(附帯控訴人)の負担とする。

事実

一  申立

控訴人(附帯被控訴人、以下単に控訴人または控訴会社という)は主文同旨の判決を求めた。

被控訴人(附帯控訴人、以下単に被控訴人という)は「本件控訴を棄却する。控訴人は被控訴人に対し、金三万〇四五〇円及び昭和五一年三月一日以降毎月末日限り金八七〇円を支払え。訴訟費用は控訴人の負担とする。」との判決を求め、仮りに原判決主文第一項の請求が認められないときは「被控訴人は控訴人に対し懲戒(けん責)処分の付着しない労働契約上の地位を有することを確認する。」との判決を求めた。

二  主張及び証拠関係

当事者双方の主張及び証拠の関係は次に付加するほか原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する。

1  被控訴人の主張

(一)  被控訴人は、控訴人の一般昇給基準に基き、昭和四八年四月一日付の定期昇給において一カ月金一四二〇円が増額されるべきものであつたところ、本件懲戒(けん責)処分のため右定期昇給において金五五〇円しか増額されなかつた。しかし本件懲戒処分は無効であるから被控訴人は前記定期昇給において金一四二〇円昇給したものとして取扱われるべきである。従つて被控訴人は控訴人に対し昭和四八年四月一日以降一カ月につき金八七〇円の未払賃金の支払請求権を有する。よつて被控訴人は控訴人に対し昭和四八年四月一日から同五一年二月末日までの合計額金三万〇四五〇円と同五一年三月一日以降毎月末日限り金八七〇円の支払を求める。

(二)  なお本件懲戒処分の無効確認を求める被控訴人の請求が法律上の理由で許されないときは、被控訴人が控訴人に対し懲戒(けん責)処分の付着しない労働契約上の地位を有することの確認を求める。

2  控訴人の主張

(一)  被控訴人の当審における賃金支払請求は従来の請求との間に請求の基礎につき同一性を欠き、また予備的請求は本位的請求と両立し得ない請求であるべきところ、当審における予備的請求は被控訴人の満足度に応じて順位的に請求するものであるから、いずれも許すべきではない。

(二)  控訴人における定期昇給は、従業員賃金規則(第2)第二六条により、「各人の能力、能率、勤怠その他を考慮して行ない、金額及び方法はそのつど定める」とされているのであるから、被控訴人は控訴人に対し現実に昇給した金五五〇円をこえる金額についての定期昇給額請求権を取得しているものではない。従つて被控訴人の賃金差額請求は理由がない。

3  証拠関係〈省略〉

理由

一  職権を以て本訴の適否について判断する。

本訴請求の趣旨は控訴会社の被控訴人に対するけん責処分の無効確認を求めるものであるが、かようなけん責処分は過去の行為であり、しかも処分自体の内容として何らかの権利義務ないしは法律関係を形成するものではないから、その無効を確認するということが、現在の権利義務ないしは法律関係の存否を確認するという確認訴訟の形態においてどのような意味を有するか、疑問がないではない。

しかしながら、企業において懲戒処分としてけん責がなされた場合、被処分者である従業員に対し、けん責処分を理由として給与その他の労働条件の上で不利益な取扱いがなされることは通常予想されるところであり、その不利益取扱いの内容程度如何は別として、けん責処分が不利益取扱いの原因となり得ることは企業社会において一般に承認されたところということができる。現に、本件けん責処分についても、昭和四八年四月一日の定期昇給において、被控訴人が、本件けん責処分の存在を理由として、最低昇給額適用者として取扱われ給与の上で不利益を蒙つたことは、弁論の全趣旨に照らし明らかであり、しかも本件けん責処分による被控訴人に対する不利益取扱いが、現在または将来においてこの範囲にとどまることは保し難いのである。

けん責処分の被処分者は一般にこのような不利益取扱いの危険を有しているのであるが、もしそのけん責処分が違法無効のものであるとすれば、かような不利益取扱いは許されない筈であるから、被処分者は企業に対して右けん責処分を理由とする不利益取扱いをしないことを求め得なければならない。従つて、形式上けん責処分が存在する以上、被処分者が右けん責処分の無効を主張して包括的にこれに基づく不利益取扱いをしない義務が企業に存することの確認を求めることは、現在の権利義務ないしは法律関係に関する確認訴訟として、その利益を肯定してよいものと考える。そして、本件の如きけん責処分の無効確認を求める訴の本質は、右のような包括的不作為義務の確認を求める趣旨と解されるから、その訴の適法性はこれを否定すべきではない。(ちなみに、右のような理解の下では被控訴人が本訴において予備的に申立てている「けん責処分の付着しない労働契約上の地位の確認」ということも、表現に差はあれ、同一内容の請求とみるべきであろう。)もとより、このような不利益取扱いが現実になされた場合には、その都度その内容に応じた救済的訴の方法も可能であるが、このような方法は極めて迂遠であり煩さであつて、個別的訴の可能であることを理由に包括的不作為義務の確認を許さないとするのは妥当を欠く。

更にまた、けん責処分は従業員に対する懲罰として被処分者の名誉権を侵害するものであるから、それが理由なくしてなされた場合不法行為としての一面を有すると解される(通常故意過失の存在は推定される)が、民法七二三条に規定する名誉回復措置として、けん責処分の無効確認を求めることも許されてよいのではないかと考えられ(いわば観念的不法行為であるけん責処分による名誉棄損に対しては端的にその処分の効力を否定することが、最も直接的な名誉回復となる。)こうした点も側面からこの種けん責処分無効確認の訴の適法性を支えるものといえよう。

よつて、本件訴は適法である。

二  当事者間に争いがない事実及び本件懲戒処分がなされるに至つた経緯については原判決理由一、二のとおりであるからこれを引用する。

三  そこで本件懲戒処分の適否について判断する。

1  本件規程の効力について

本件規程二条一項四号は任意保険に加入していない者に対し、通動車輛の構内乗入れを拒否するもの、すなわち構内通行を禁止し駐車場の利用を拒否するものである。

しかして控訴会社構内は控訴会社の各施設の存する場所であり、また駐車場は控訴会社の施設であつて控訴会社の施設管理権の及ぶところであるが、本来控訴会社において従業員に対し会社構内を通勤車輛で通行さすべき義務はもとより、通勤車輛のため駐車場を設置する義務も、労働契約等により通勤車輛の構内通行、駐車場の設置とその使用につき特段の定めがない限り、当然には負わないものと解されるから、使用者たる控訴会社が従業員の利用に供せんとして会社構内に駐車場を設置した場合であつても、それは従業員に対する一の便宜供与に過ぎないというべきであり、控訴会社において自由にその使用に制限を加え得ることはいうまでもないところである。もつとも、その制限の仕方が全く合理性を欠き、殊に従業員間の差別待遇に連らなるとみられるような場合には、かような制限は許されないと解すべきであろう。

そこで本件規程の任意保険に加入しない者に対し構内通行を禁止し駐車場の利用を拒否する定めが全く合理性を欠くものであるかどうかについて検討するに、(イ)従業員の通勤途上の事故については、企業は特段の事由のない限り法的には損害賠償責任は負うものでなく、賠償は従業員個人の問題というべきであるが、事故の発生はもとより、事故が発生した場合の責任及び賠償をめぐつての被害者との対立が、事実上の問題として被害者の多くが属する企業周辺の地域社会の企業に対するイメージを損じ、その社会的評価に影響を与えることは否定しがたいところであり、(ロ)また原審証人本田千之、同仲井義明、当審証人藤井泰延は加害従業員の損害賠償能力が乏しいとそれが気になつて職務の専心度が低下し、作業能率を阻害し更には業務上の災害を起す可能性もある旨供述しているが右供述内容は首肯し得るものであり賠償問題が加害従業員の業務に与える影響は少なからぬものがあると考えられるし、更には当該従業員のみならず、その属する職場の上司、同僚等にも、その業務遂行に何らかの影響を及ぼさないとはいえないことが推測される。

そうするとかような事故が発生した場合、企業は被害者に対し迅速かつ十分な被害の弁償がなされることにつき利害関係を有するといわねばならない。そして資力のない従業員はもとより資力のある従業員においても、迅速かつ十分な弁償を行うために任意保険に加入しておくことが緊要であることは多言を要しないところであるから控訴会社が任意保険に加入して損害賠償能力を高めた者に対し構内乗り入れを許し、然らざるものに対しこれを拒否することは決して合理性を欠くものとはいえず、この点において本件規程を無効とすべき理由はない。

被控訴人は本件規程は本来従業員の私生活に属し、その任意であるべき任意保険の加入を強制するものであるから従業員の権利を侵害し無効であると主張する。既に説示したところで明らかなとおり、本件規程は直接に自動車の通勤者に対し任意保険への加入を命令し強制するものではないが、本件規程により自動車通勤者は他に駐車の便を有しない限り結果として任意保険に加入せざるを得ないし、加入しない者は自動車通勤を断念せざるを得ないことになる。しかし通勤手段の選択は従業員個人の自由に属するといえるにしても、その自由はあくまでも従業員側のみにおける自由であるに過ぎないのであつて、その選択が従業員の企業に対する権利となるものではないから、前記の意味で本件規程が従業員の通勤手段を制限する結果となるとしても、これをもつて従業員の権利を侵害するものということはできない。もつとも企業の立地条件、従業員の住居の通常あるべき位置、交通機関の状況、従業員の業務内容等諸条件の如何によつては、社会観念上自動車による通勤を相当とすべき場合もないとはいえないし原審証人仲井義明の証言及び原審における被控訴人本人尋問の結果によれば、控訴会社長府工場においても三勤交替のため自動車通勤が必要な従業員が存在することがうかがわれないではないが、このような例外的な存在があることによつて、本件規程の一般的効力が否定されるべきであるとは解しがたい。かような例外的存在について救済が必要であるとすれば、それは別個に考慮すべき問題であろう。(成立に争いのない乙第二三号証の一、二と弁論の全趣旨によれば、控訴会社においては通勤交通費補助制度があり、また社宅の運用による遠距離通勤の回避も考えられる。)これを被控訴人についていえば、被控訴人の居住する安養寺社宅から控訴会社長府工場までは約一・一キロメートルであり、徒歩または自転車通勤は十分に可能であるから、任意保険加入を欲しないならば徒歩または自転車通勤を選ぶこととなるが、特段の支障があるとは考えられない。被控訴人の右主張は採用し難い。

2  本件懲戒処分の適否について

前記認定によれば、被控訴人は昭和四七年九月一日以降も警備員が実力で入構を阻止するまで、任意保険に加入することなく、自動二輪車を控訴会社長府工場構内に乗り入れ、入門の際警備員がこれを制止し更に同年九月一一日には右工場総務課長仲井義明が本件規程に従うよう説得したがこれに応じなかつたものであつて、被控訴人の右行為は企業秩序を乱すものといわざるを得ず、本件規程二条一項四号に違反すること明らかであるから就業規則七〇条三号、六七条二項により被控訴人をけん責に処した控訴会社の処分は有効である。

被控訴人は就業規則七〇条三号にいわゆる「諸規則」とは労働基準法八九条に定める就業規則に限るものと解すべきところ、本件規程は同条に定める就業規則として制定されたものではないから右にいわゆる「諸規則」に該当しないと主張するが、右「諸規則」が労働基準法八九条に定める就業規則に限るものと解すべき根拠はなく、たとえ控訴会社において一方的に制定したものであつても企業秩序に関するものである以上右「諸規則」に該当するというべきところ、本件規程は通勤車輛の構内乗り入れの許否について定めたもので企業秩序に関するものであり、成立に争いのない乙第七号証、第一五号証、原審証人仲井義明、同坪根一由の各証言によれば本件規程は労働組合の意見を聴いて制定され、従業員一般に周知せしめられたものと認められるから、右にいわゆる「諸規則」に該当するというべきであり、被控訴人の右主張は採用し難い。

四  以上の説示によると被控訴人の原審における請求は理由がないからこれと結論を異にする原判決は不当として取消を免れず、被控訴人の当審における賃金支払請求も理由がないこととなる。なお、予備的請求については、前示のとおり主位的請求と実質的に同一の請求と解されるから、特段の判断をする必要をみない。

よつて原判決を取消し、被控訴人の原審における請求、並に附帯控訴に基き当審で拡張された金員請求及び追加された予備的請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 胡田勲 高山晨 下江一成)

原審判決の主文、事実及び理由

主文

一 被告が原告に対し、昭和四七年一一月二一日付をもつてなした懲戒(けん責)処分は、無効であることを確認する。

二 訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一 請求の趣旨

主文一、二項と同旨の判決。

二 請求の趣旨に対する答弁

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一 請求原因

1 被告は、鉄鉱、非鉄金属及びその合金の製造等を業とする会社であり、原告は、昭和三一年三月一六日被告会社に入社し、現在起重機運転工として、下関市長府町港町一番地所在の被告会社長府工場に勤務しているものである。

2 被告は、昭和四七年一〇月二一日、同月一六日開催された懲戒委員会の答申に基づき、原告に被告会社従業員就業規則第七〇条第三号に該当する事由があるとして、同規則第六七条第二項により、原告をけん責処分に付する旨通知したので、原告がこれに対して異議の申立をしたところ、同年一一月九日、再審査を行つたうえ、同月二一日、右と同一の理由により、原告をけん責処分に付する旨の意思表示をなした。

3 しかしながら、原告には同規則第七〇条第三号に該当する何らの事由もなく、右懲戒処分は無効であるのに、被告がこれを認めないので、右処分が無効であることの確認を求める。

二 請求原因に対する認否

1 請求原因1及び2の事実は認める。

2 同3の事実は争う。

三 被告の主張

1 本件懲戒の理由

(一) 被告会社は、交通安全に資することを目的として、従業員の通勤に利用する車両の会社構内への乗り入れ及び駐車に関して、昭和四四年九月一日「通勤用車両取扱規程」(以下本件規程という)を制定施行したが、右規程第二条第一項は、「車両を会社の構内に乗り入れしようとする者は、次の各号に掲げる要件を具備していなければならない。」と定め、同項第四号において、「保険金額七〇〇万円以上の任意対人賠償保険(以下任意保険という)に加入していること。」と規定し、これをうけて第三条は、前条の要件を具備した従業員は、被告会社から車両乗入許可票(以下ステッカーという)の交付を受け、これを車両に貼布しなければ、車両を構内へ乗り入れることができない旨定めている。そして、右ステッカーの有効期限は、右規程第八条第一項において、自動車及び原動機付自転車にあっては、交付を受けた日から最初に到来する八月末日までとされているので、毎年八月末日がステッカーの更新時となつている。

(二) ところで、右ステッカーの更新時である昭和四七年八月末ころ、被告会社長府工場内外においては、交通災害の防止、安全確保につき積極的な措置をとるべき事情が生じていた。即ち、同年三月ころ、同工場勤務の従業員による飲酒運転、あて逃げという相当重大な交通事故が続発したため、被告会社は、職場通達や工場回報で交通災害防止について従業員の注意を喚起したが、それにもかかわらず、同月末には重ねて従業員による死傷事故が発生した。一方、同工場周辺部の長府警察署管内においては、交通災害防止の運動、施策の推進の高まりがあり、同工場沿いの国道、その付近道路に信号機が数個所新設せられるようになつた。そして、同工場においても乗入車両の総数が増加し、事故の多発が心配せられる状況にあつた。

(三) そこで、同工場においては、右ステッカーの更新時に先立ち、工場回報をもつて全従業員に対し、本件規程の厳守を呼びかけ、自動車の運転者に対しては別に、「自動車通勤の皆さんへ」と題する書面を配布して交通災害防止のアッピールを行い、同時にこの書面において右規程の解説と構内における交通準則を詳細に説明し、さらに、乗入者用の駐車場の整備、構内への車両の乗入と走行についての注意事項と準則の遵守につき徹底化を図つた結果、同年八月末日の更新時には、同工場の乗入者は、原告一人を除いて全員ステッカーの交付申請手続をとつた。

(四) 原告は、以前よりステッカーの交付を受けようとせず、ステッカーを貼付しないまま通勤用車両を同工場構内へ乗り入れ、駐車場を使用していたものであるが、同年八月末日の更新時にも、右車両につき保険金額七〇〇万円以上の任意保険に加入せず、また、ステッカーの交付も受けず、同年九月一日以降もステッカーの貼付のない通勤用車両を会社構内へ乗り入れていた。

(五) そこで、被告会社は、原告に対し再三にわたつて注意をし、同月一一日には改めて本件規程の趣旨を説明し、ステッカーを貼付しないまま通勤用車両を構内に乗り入れることを止めるように注意したが、原告は、これを無視し、原告の右行為に関する懲戒委員会が開催される直前の同年一〇月一三日まで、右車両の乗り入れを止めなかつた。

(六) 原告の前記(五)の行為は、被告会社従業員就業規則第七〇条第三号(出勤停止または減給事由である「会社の諸規則に違反し、または諸規則に定める手続その他の届出を怠り、または偽つたとき。」)に該当するが、被告会社は、原告の反省と自覚を期待し、同規則第六七条第二項(「規定違反の程度が軽微であるか、特に情状しやく量の余地があるか、または改しゆんの情が明らかであるときは、懲戒の程度を軽減し、もしくはその執行を猶予し、または懲戒を免じ訓戒にとどめることがある。」)を適用し、懲戒処分としては一段と軽微な「けん責」(始末書を取り将来を戒める処分)にとどめることにしたものである。

2 本件規程の効力

原告は、本件規程による規制は、従業員の私生活に関する事項について命令干渉するものであり、使用者の権利に含まれないから、右規程は無効である旨主張するが、以下において詳述するとおり、使用者たる被告が、このような規制をすることは何ら違法ではなく、本件規程は有効である。

(一) 本件規程の目的と規制の対象

本件規程の目的は、「従業員が通勤に利用する車両の取扱いについて定め、もつて交通安全に資すること」(第一条)にあるが、企業が、従業員の通勤手段としての車両に関して、通勤途上の災害の防止、構内、構外における交通の安全、及び加害事故発生による賠償問題から派生する職場の労働秩序の混乱防止のために、車両の取扱いにつき一定の規制を行うことは、企業秩序の維持確保の上から必要な措置である。

このため被告会社は、無免許者、酒酔い運転等の一定の交通反則行為のあつた者、重傷の対人交通事故を起した者(本件規程第二条第一項第一号ないし第三号)等のいわば運転不適格者とみられる者及び任意保険に加入せず、損害賠償能力が欠如する者(同項第四号)に対し、通勤用車両の構内乗入れ拒否(第二条)、即ち、構内の通行を禁止し、駐車場利用という便益供与を拒否するという規制措置をとつたのである。

(二) 規制の必要性

任意保険に加入することは加害者としての損害賠償能力を持つということである。従業員が通勤途上交通事故の加害者となつた場合、賠償能力を持つているかどうかは、以下において述べるように、職場の労働秩序と企業が地域社会から受ける評価に重大な影響をもち、ひいては企業秩序をあやうくすることになる。

(1) 賠償能力の欠如が職場の労働秩序へ及ぼす影響

従業員がマイカーで通勤中に交通事故を惹起した場合、これに伴つて発生する損害賠償の問題は、職場の労働秩序に多大な影響をもたらし、職場秩序の維持確保の上で大きな問題となる。

事故の発生は、単に取調べのための呼出し等で、加害事故を起した従業員の労働時間が逸失するというだけにとどまらず、当該従業員の上司である組長、班長も、関係者に対する見舞、示談等の事故処理のため駆けずり廻らなければならず、他方加害者の欠勤のため、不意に職場の他の労働者の労働密度が高まる等好ましくない事態が発生する。また、賠償能力が不足するため心ならずも会社をやめて行く者もあり、有益な人材を失うという会社、従業員双方にとつて不幸な事態も生じるが、そのような事態に至らないまでも、賠償金の調達に苦しむことによつて加害者たる従業員の生活が行き詰まり、それが職場に暗い雰囲気をもたらし、職場全体の志気の低下をきたすことになる。

(2) 賠償能力の欠如が地域社会に及ぼす影響と企業秩序

賠償能力の欠如によつて生じる問題は、右に述べたような単なる企業内部の問題たるにとどまらず、地域社会との関係で、企業の評価に重大な影響を及ぼし、ひいては企業秩序をあやうくすることになる。

通勤途上の交通事故は、企業の周辺で発生するから、賠償問題で企業構成員と地域住民が対立することとなるが、加害従業員だけが被害住民と折衝して事件が落着するというものではなく、事故処理のために、当該従業員に代つて上司や同僚が奔走せざるを得ず、特に賠償能力が不足する場合には対立は長引き深刻となる。

今日的な課題として企業は、その置かれた地域社会に対してあらゆる面での安全について協力態勢をとる必要があるが、殊に交通安全に協力することは日常的な問題であるだけにとりわけ重要なことである。かかる協力態勢を確立することによつて、企業は地域社会との間に対立もなく、異和感を催させることもなく存在することが可能となる。そして、このことは単に企業のみでなく、当該企業の構成員全体にも要請されることである。従つて、従業員としては、任意保険に加入することによつて、賠償力を確保し、万一事故が発生した場合にその社会的責任を果すことが、右の要請に対し最少限度応えることになる。若し右社会的責任が充足されないときは、当該従業員と住民の対立だけにとどまらず、企業全体に対する地域住民の悪感情を生じさせ、企業の社会的評価を毀損することはいうまでもない。

交通事故やその賠償問題だけをとつてみると、職場外のことであるし、その労働者の職務遂行に直接関係のない事項といえるかもしれないが、企業秩序の維持確保は、従業員の職場内または職務遂行に関係ある行為のみを対象としてこれを規制することにより達成しうるものではない。従業員の職場外でされた職務遂行に関係のない所為であつても、企業秩序に直接の関連を有するものもあり、企業の社会的評価の低下毀損は企業の円滑な運営に支障をきたすおそれなしとしないのであつて、その評価の低下毀損につながるおそれがあると客観的に認められるがごとき所為については、職場外でされた職務遂行に関係のないものであつても、なお広く企業秩序維持確保のために、これを規制の対象とすることが許される場合もありうるのである(最高裁昭和四九年二月二八日判決参照)。

本件規程第二条第一項第四号は、事故発生の際の賠償能力の確保を目的とするものであり、これによつて、以上のような加害事故の発生に伴つて職場に派生する労働秩序の混乱を予防し、地域社会との関係における被告会社の評価と企業秩序を確保しようとするものであつて、右規程の要件を具備せず、賠償能力が欠如するおそれのある者に対し、車両による会社構内の通行と駐車場の利用を許可しないとする規制は、企業秩序の維持確保のため必要な措置である。

(三) 本件規程第二条第一項第四号の規制の内容

本件規程第二条第一項第四号は、原告が主張するように「通勤用車両につき任意保険に加入せよ」と命じているのではなく、会社構内の駐車場の利用の許否を任意保険への加入の有無を基準とするにすぎないものである。また、実際の管理運用においても、以下において述べるように、特定の従業員に不当な差別を加えて任意保険に加入するよう強制するものではない。

(1) 原告に関していえば、原告は、被告会社長府工場から約一・一キロメートルの距離にある安養寺社宅に居住しており、徒歩または自転車で通勤することも十分可能である。道は平坦であり、会社への所要時間は、自動車と徒歩を比較しても数分の差にすぎない。現に、昭和四九年八月末日当時、右社宅には二九世帯が入居しており、このうち九世帯の者がステッカーの交付を受けて自動車通勤をしている外は、他の大半の者は徒歩または自転車で通勤している状況にある。また、原告の使用している一二五cc自動二輪車に対する保険金額七〇〇万円の任意保険の保険料は、団体扱いで加入すると月額三八〇円にすぎず、自動車通勤をする従業員が、この程度の負担に耐えられないとは到底考えられず、この点をもつて、任意保険加入の強制となるものではない。

(2) 従業員一般についても、公共の交通機関を利用できず、徒歩或いは自転車通勤も選択できず、マイカーが唯一の通勤手段であるという従業員は極めて稀であり、しかも、そのような従業員に対しては、社宅の運用により自動車通勤を避けるか、通勤交通費補助制度の活用によつて、任意保険加入に伴う保険料負担の軽減を計りうる仕組みとなつている。

(四) 駐車場提供義務の不存在

原告は、被告会社としては、原告の労務提供を受けるために協力する義務があり、駐車場の提供もその範囲に含まれる旨主張するが、労働契約または労働協約において、通勤用車両、駐車場の設備、その使用につき特段の定めがある場合は格別、使用者が従業員において任意に選ぶ通勤用車両その他の通勤用具のために、その駐車場を設置し提供する義務を当然に負うものではない。むしろ、被告会社は、前述のように原告に対し企業秩序に適合する行動を求めうる立場にあるのであつて、原告が本件規程の要件を具備しない限り、駐車場の使用を拒む正当な理由を有するものというべきである。

(五) 本件規程成立の事情と社会的通用性

本件規程は、多発する通勤途上の交通事故について、労働組合より被告会社に対し、事故対策をとるように要請があり、その施策として生まれてきたものである。そして、手続的には労使間の同意を得て制定されたものであり、社報によつて全従業員に周知せしめたもので、「規程」という形式はとつているものの、企業内では、企業構成員全体がこの規程の定めを理解し、就業規則と同様に遵守すべきものであるとの規範意識を以つて支えているのである。

本件規程と同じ内容のものは、今日多くの企業、職場で採用せられており、規範として社会的通用性を有し、自治法規としての地歩を獲得している。

以上のように、本件規程には何ら違法な点はなく、これに違反した原告の前記行為に対する本件懲戒処分は有効である。

3 本件規程の法的拘束力

原告は、従業員就業規則第七〇条第三号の「諸規則」とは、就業規則そのものに限ると解すべきところ、本件規程は法定の手続を経て成立した就業規則ではないから法的拘束力がないと主張する。

しかしながら、使用者は、職場における規律維持を担当する者として、職場の安全を図り、秩序を保ち、生産を高めるために規律の維持に必要な措置を講ずる等、就業に関する指揮命令権を持つており、労働者に職場規律維持にふさわしい行動を求める権利と、その秩序に適合する形での労働提供を求める権利を有する。従つて、使用者は、個々の従業員に対し、時宜に応じて必要な企業秩序維持に関する具体的な指示命令を行うことができるほか、従業員全般に対し、一般的な指示命令の形式、即ち、規則あるいは規程という成文化された形式で、企業秩序に関する諸規則を定めうることはいうまでもなく、かかる意味での規則は、もとより就業規則以外の形をとることも可能である。

本件規程は、前述のように企業の秩序維持を目的とするものであるから、これに違反した原告の行為が、就業規則第七〇条第三号に該当することはいうまでもなく、本件懲戒処分は有効である。

四 被告の主張に対する認否

被告の主張事実中、被告会社が、その主張する内容をもつた本件規程を制定施行していること、及び原告がその通勤用車両について、任意保険に加入することなく、また、ステッカーの交付手続とその貼付をしないまま、これを被告会社長府工場構内に乗り入れていたことは認めるが、その余の点はすべて争う。

五 原告の主張

本件規程は、以下において詳述するとおり、無効であるか、または従業員就業規則第七〇条第三号にいわゆる「諸規則」に該当せず、法的拘束力を有しないものであるから、結局において、原告には、同規則第七〇条第三号に該当する何らの事由もないこととなり、本件懲戒処分は無効である。

1 本件規程の無効

(一) 本件規程第二条第一項第四号の内容は、従業員に対し、保険金額七〇〇万円以上の任意保険に加入することを強制するものである。

なんとなれば、被告会社における従業員の勤務時間は深夜または早朝に及ぶものであるから、徒歩または自転車で遠方から通勤するという不便苦痛を忍ばない限り、自動車で通勤することは従業員にとつて避け難いことであり、自動車で通勤する以上、特別の出資を覚悟して会社構内以外の場所に自動車の保管場所を設けない限り、自動車の構内乗り入れは避け難いことである。それに対して、任意保険に加入しない限りステッカーを交付せず、ステッカーを自動車に貼付しない限り構内乗入れを許さないということは、任意保険に加入することを強制すること以外の何ものでもない。

(二) 使用者と従業員との法律関係は雇傭契約関係であり、雇主たる使用者は、被用者たる従業員に対して労務の提供を要求する権利を有するにとどまり、労務の提供に直接関係のない、従業員の私生活に属する事項について命令干渉することは許されないことである。

(三) ところで、本件規程は、前記のように、従業員に対して任意保険に加入することを強制するものであるが、それは被告会社が雇傭契約上有する雇主の権利、その業務命令権の範囲に属しない事項であり、許されないことである。なぜなら、このようなことは、被告会社が原告を雇用した目的と直接にも間接にも関係がなく、また、被告会社の職場の秩序とも何ら関係のない私的生活に属する事項であるからである。

(四) それのみならず、そもそも従業員たる原告が労務提供をなすにあたつては、雇主たる被告としては、その提供を受けるために協力する義務があり、通勤用車両の置場を整備提供する義務もその内に含まれるものというべきである。

従つて、任意保険への加入等の条件をつけないで、原告に対し、車両を構内へ乗り入れさせることは、被告の義務であるといわざるをえない。

(五) 被告は、従業員による飲酒運転、あて逃げという相当重大な交通事故が続発し、さらに、死亡、重傷者の出る交通事故が発生したため、交通安全という社会的責務を果すため本件規程を制定したものであると主張するけれども、保険金額七〇〇万円以上の任意保険に加入することが、交通事故の防止に直接役立つとは考えられないし、もともと交通取締の権限を有しない私企業が、交通安全に資するという名目の下に本来その業務命令権の範囲に属しない事項について、従業員に対し一定の行為を強制することは許されないことである。

(六) さらに、被告は、本件規程は、労働組合の同意を得たうえ社報によつて全従業員に周知せしめたものであると主張するが、使用者がその業務命令権の範囲に属しない事項について、就業規則と同様の手続によつて規程を制定したからといつて、そのことによつてそれが有効となるものではない。また、労働組合が組合員個人の固有の権利に関し、当該組合員に代つて使用者と協定し、或いは同意を与える権限を有しないことはいうまでもなく、労働組合の同意をえたからといつて本来無効な規程が有効となるものではない。

(七) 以上の理由により本件規程は無効であり、これに違反したことを理由とする本件懲戒処分もまた無効である。

2 法的拘束力の欠如

被告は、原告の行為は、従業員就業規則第七〇条第三号に該当する旨主張するが、労働基準法第八九条は、労働者に対する制裁の定めをする場合は、就業規則によるべき旨を定めており、同条の解釈上、就業規則によらないで労働者に制裁を科することは許されないというべきであるから、右就業規則第七〇条第三号にいわゆる「諸規則」とは、当然労働基準法第八九条に定める就業規則に限るものと解すべきところ、本件規程は、同条に定める就業規則として制定されたものではない(また、労働組合法第一四条に定める労働協約でもない)から、本件規程は、従業員である原告に対して法的拘束力がなく、これに違反したことを理由とする本件懲戒処分は、労働基準法第八九条に違反し無効である。

第三証拠関係〈省略〉

理由

一 請求原因1及び2の事実、被告会社がその主張する内容をもつた本件規程を制定施行している事実、並びに原告がその通勤用車両につき任意保険に加入せず、また、ステッカーの交付手続及びステッカーの貼付をしないまま、これを被告会社長府工場構内に乗り入れていた事実は当事者間に争いがない。

二 そして、成立に争いのない乙第一、第二号証、第五号証の一ないし八、第六、第七号証、証人仲井義明の証言及び原告本人尋問の結果によれば、本件懲戒処分は、次のような経緯によつてなされたものであることが認められ、これを覆えすに足りる証拠はない。

1 原告は、昭和三八年ころ、被告会社長府工場から約一・一キロメートル離れた下関市長府町安養寺一、三一三番地所在の通称安養寺社宅に入居し、それ以来自動二輪車で通勤し、長府工場構内に同車を乗り入れ、構内の駐車場(自転車置場)を利用していたものであるが、その間、昭和四四年九月一日、本件規程が制定施行された後も引続き右規程に定める任意保険に加入せず、ステッカーの交付も受けず、従つて、ステッカーを車両に貼付しなかつた。

2 本件規程第八条第一項第一号は、ステッカーの有効期限は、自動車及び原動機付自転車にあつては、交付を受けた日から最初に到来する八月末日までと定めており、同条第二項において、引続き車両を構内へ乗り入れようとする者は、新規にステッカーの交付を受けなければならないと定めているが、被告会社長府工場においては、昭和四七年八月末日のステッカーの更新時に先立ち、同年三月ごろ、同工場従業員による交通事故が引続いて発生したため、従業員に対し、職場通達や工場回報によつて交通災害防止について繰返し注意を喚起する一方、右ステッカーの更新時に際し、本件規程の徹底化をはかることとし、工場回報によつて右規程の厳守を呼びかけ、さらに、自動車の運転者に対しては、「自動車通勤の皆さんへ」と題する書面を配布して、右規程の内容の説明及び工場構内における交通準則について説明を行つた。

3 その結果、右更新時において、長府工場では、更新手続が若干遅れた者はあつたが、原告ほか二名を除きすべて本件規程の定めに従つたので、被告会社の警備員及び長府工場総務課長仲井義明らは、原告ら三名に対し、右規程を遵守するよう説得を重ねたところ、原告を除く他の二名は、間もなく自動車通勤をとりやめ、車両の構内乗り入れを中止した。

4 原告は、右更新時のころ、被告会社の警備員から、本件規程に従つてステッカーの交付を受けるようその申請用紙を手渡されたが、「任意保険に加入しなければステッカーの交付を受けることは絶対に不可能である」旨告げられたので、ステッカーの申請手続をとらず、同年九月一日以降も従前どおり、通勤用車両を工場構内へ乗り入れていた。

5 そこで、被告会社においては、原告が入門する際、警備員がこれを制止し、更に同月一一日には前記仲井義明が本件規程に従うよう強く説得したが、依然として原告がこれに応じなかつたため、翌日からは、原告が構内に乗り入れようとすると、警備員が停車を命じ、実力で車両による入構を阻止した。

6 そのため原告は、右車両を門の所に放置したまま入構するようになり、このような事態は、本件懲戒処分後も同年一二月二一日まで続いたが、それ以後は、原告が入門時の警備員とのトラブルを回避するため、工場付近の路上に駐車するようにしたため、右事態はおさまつた。

7 被告会社は、原告が同年九月一日以降になした前記行為は、前記就業規則第七〇条第三号(出勤停止または減給事由である「会社の諸規則に違反し、または諸規則に定める手続その他の届出を怠り、または偽つたとき。」)に該当し、しかもその態度には改悛の情もなく、また必ずしも事案が軽微であるとも解しえないが、原告が本件規程違反の乗り入れを中止することを期待する政策的配慮から、同規則第六七条第二項(懲戒の軽減または執行猶予)を適用して、前記のとおり原告をけん責に処した。

三 そこで、本件懲戒処分の適否について判断する。

1 原告は、本件規程第二条第一項第四号は、従業員に対して任意保険に加入することを強制するものであり、使用者がこのような労働者の私生活上の行為について命令、干渉する権利はなく、右規程は無効である旨主張し、被告は、右規程は、会社が企業秩序の維持確保の必要から、従業員に対する指揮命令権に基づき、任意保険未加入者に対し、会社構内における車両の通行と駐車場の利用という便宜供与を拒否するにすぎず、使用者が従業員に対し、このような規制をすることに何らの違法はないと主張する。

なるほど、本件規程の右条項そのものは、任意保険加入の有無を構内通行及び駐車場利用の前提条件とするにすぎないが、従業員は、自己の通勤用車両につき、保険金額七〇〇万円以上の任意保険に加入しないかぎり、右車両の構内乗り入れに必要なステッカーの交付を受けられず、しかも、前記認定の懲戒に至る経緯に照しても明らかなように、右規程の定めに違反して入門しようとする者に対しては、警備員が実力でその入門を阻止し、あくまでもこれに従わない場合は、懲戒処分に付されるのであるから、従業員としては、自動車による通勤を断念して自転車、バスもしくは徒歩通勤等に代えるか、あくまで自動車通勤をしたいと思うならば、会社構外に駐車場を求めざるをえないが、路上駐車をする場合はさておき、他に駐車場を求めることは実際上極めて困難であるから、結局従業員としては、任意保険に加入するか、自動車通勤を断念するかの二者択一を迫られることになる。

しかも、証人仲井義明の証言及び原告本人尋問の結果によれば、交替制勤務や労働による疲労のため、従業員の自動車通勤に対する希望はかなり強いものがあると認められるから、本件規程による規制は、他の通勤手段をとることが困難な従業員に対してはもちろん、それ以外の従業員に対しても、実質上任意保険加入を強制する効果を有するものといわざるを得ない。

2 そこで、被告が、任意保険加入の有無によつて右のような規制を行うことの是非について考えてみるに、使用者が職場における規律維持を担当する者として、職場の安全を図り、秩序を保ち、生産を高めるために規律の維持に必要な措置を講ずる等、就業に関する指揮命令権を有し、このために個々の従業員に対し、時宜に応じて必要な指示命令をなしうるほか、従業員全般に対し、一般的な指示命令、即ち、規則あるいは規程という成文化された形式で、企業秩序に関する諸規則を定めうることはいうまでもないが、通勤は、従業員の労務提供につき欠かせないものであり、労働条件の付随的内容をなすものと考えられるから、使用者が、従業員の利用に供せんとして駐車場を設け、これを一般的に使用させている以上、特定の従業員に対し、右駐車場の利用を拒否するには、そうしなければ労働契約関係の目的を達し得ないか、または会社施設の正常な管理が阻害される等、企業の秩序維持に欠かせない特段の事由のある場合でなければならず、更に、前記のような規制を行うに際しては、従業員の私生活上の自由を不当に侵害するものであつてはならないと解せられるところ、本件証拠上被告会社が、任意保険未加入の従業員に対し、駐車場の利用を拒否すべき右特段の事由は認められないばかりか、そもそも、自己の通勤用車両につき、任意保険に加入するか否かは、本質的に当該車両利用者が自己の意思によつて決すべき事項であり、ましてや使用者において、従業員の起した交通事故の損害賠償につき何ら法的責任を負わず、当該従業員個人にその解決を任せる場合においては、たとえ労働契約関係にあるからといつて、使用者たる立場においてこれを強制することが許されないのは自明であり、同様の理由で、実質的にこれを強制する効果を有する前記規制は、従業員の私生活上の自由を不当に侵害するものとして許されないというべきである。

3 被告は、任意保険に加入しないことは事故に対する賠償能力を有しないということであり、賠償能力の欠如により労働秩序に多大の影響が生じ、企業の社会的評価をも低下せしめ、ひいては企業秩序をあやうくするので、かかる規制が必要である旨主張する。

しかしながら、従業員が交通事故を惹起したことによつて派生する右影響の大部分は、任意保険加入の有無にかかわりなく、すべての交通事故発生の場合に多かれ少なかれ生ずるものであり、しかも、使用者である被告としては、職務行為と関係なく発生した交通事故の賠償問題等は、すべて当該従業員個人の責任において処理させることによつて職場の労働秩序への影響を防止することも可能であるから、これらの事情をもつて本来従業員個人の自由に属する任意保険への加入を強制するような前記規制を正当化する理由とはなし得ない。

また、被告主張のように、企業が地域社会との関係において社会的責任を感じ、社会的評価を維持すべく地域の交通安全に協力する等の活動をなし、その一環として従業員に対して交通災害防止につき注意を喚起し、任意保険に加入するように勧め、これについて便宜を図ることが望ましいことは言うまでもないが、そのことから直ちに、企業の一構成員にすぎない従業員が、賠償能力を確保すべき労働契約上の義務を負うものとは考えられず、いわんや賠償問題の発生に備えて任意保険に加入すべき義務を負担するものとは到底考えられない。従業員が悪質な交通事故を起し、そのことによつて企業の社会的評価を著しく低下せしめ、企業秩序を乱したと認められる場合に、何らかの不利益を蒙ることがあるのは格別、任意保険に加入しないという事実そのものは、いかなる意味においても、企業の社会的評価を低下せしめるものではないし、将来にわたつて社会的評価を貶しめるおそれがあるとも一概には言えないから、この点についても前記規制を正当化する理由とはなし得ない。

4 さらに、被告は、本件規程は労働組合の同意を得て制定されたものであり、従業員全体が遵守すべき規範としてこれを尊重しており、同種の規制は他の企業においても広範に行われており、一種の自治法規と目すべきである旨主張するが、証人有馬茂の証言及び原告本人尋問の結果によれば、被告会社の従業員中には右規程につき不満を持つ者もあることが窺われるうえに、これに反する者に対しては構内への乗り入れを実力で阻止し、あまつさえ懲戒処分に付すという状況の下においては、殆どの従業員がこれに従つているからといつて、本件規程が自治法規であるとはたやすく認められず、また、労働組合が同意したとしても、組合員個人の私的自由に属する事項につき効力を及ぼしうるいわれはなく、さらに、このような規制が他の企業において広範に行われていたとしても、そのことによつて本件規程が有効となるものでもない。

5 以上説示のとおり、本件規程第二条第一項第四号及び同条項号を前提とする第三条による規制は、従業員の私的自由に属すべき事項につき正当な理由なく命令干渉するものであり、労働契約に基づく使用者の指揮命令権の範囲を逸脱するものであるから、従業員に対し、何ら効力を有しないというべきである。従つて、これに違反したからといつて前記就業規則第七〇条第三号に該当するものではなく、結局本件懲戒処分は、理由がなく無効である。

四 よつて、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

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